限りある壊れモノとしての人間(特におっさん)
大人になってから色々なことに限界を感じるようになりました。
その一つが集中力です。中高生の頃、五時間勉強しただのなんだの、長時間集中できるかのような錯覚をしていた気もしますが、最近では、一日に使える集中力はせいぜい2~3時間ではないかと考えるようになってきています。
運動をすれば、体力がすり減ります。
嫌な人と話をしたり、緊張をすると精神がすり減ります。
集中をすれば、集中をするためのエネルギーが枯渇するのではないでしょうか。どうして精神的なことだけは努力で何とかなると考えてしまったのでしょうか。
印象的なことがあります。東京で働いていた時に、深夜にタクシーに乗ると、「お客さん、睡眠時間ちゃんととっていますか」と運転手さんが言いました。運転手の思い出話が始まりました。
「友人に30代から2時間睡眠でも生きていけるとバリバリ稼いでいた人間がいたんですが、50からペースメーカーを入れるようになった。無理はできないもんですなあ」
ああ、そんなものなのかな、と。私たち人間は物理的にも精神的にも限りあるリソースを割いて生きています。たまに非常に丈夫な人がいるせいで、間違えてしまいそうになるだけで、基本的には限りある壊れモノなんだなあ、と。
そして、私たちは多くの場合、収穫逓減の法則から逃れられません。時間を圧縮して短期的に無理をしても、効果を上げることはできず、体を壊すだけなんだと最近しみじみと思っています。