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知っている、から、理解できた、へ。理解できた、から、できる、へ。ビジネス知識からパフォーマンスへの橋渡し

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『思考停止ワード44』(博報堂ブランドデザイン著、アスキー 新書)その6

ことばで説明できるかということは、物事の正しさを決める絶対的な基準ではありません。説明できないことにも正しいことはあります。物事のメカニズムをきっちりと認識することができるかどうかは、その物事が正しいかどうかとは別物です。

 

 ことばで説明できないことに正しいことがあるのだとしても、ことばで説明できなくてよいということではありません。直接はっきりとした説明を与えることができなかったとしても、理解を促すような仕方があるかもしれません。

 

 その点を踏まえて、同書の「非合理」の項目を読んでみましょう。経営者のことばをひきながら、勘が正しいアイデアの源泉になることがある、ということを説明した後、ベースになっているのは暗黙知や経験知である、とし、経験が不足しているときには失敗するかもしれない、と締めています。

 

 切り口はいいけれども、突っ込みが浅い項目になっています。これを見ても、実際に仕事が行われている所で、「判断の根拠は勘です」という発言が正当化されるようになるとは思えません。

 

 合理性と非合理性の話をするときには、現代的な基準でいえば、合理性とされているものもそれほど頑強ではない、という事実を挙げておく必要があるでしょう。古くは、サイモンの「限定合理性」に始まる議論です。人間は思ったほど合理性に依拠していないし、世の中の多くの問題はゴリゴリに論理的に判断できるようなものでもない、ということが論じられます。

 

 しかも、この研究の伝統では、人間の直観についての研究も行われています。同書で触れられている危険に遭遇した時の直観的判断は、適応に関する議論では出てきます。スティーヴン・スティッチ『断片化する理性』の議論では、直観が正しいわけではないにもかかわらず役に立つ状況が説明されています。

 

 この研究の伝統の人たちが、合理性は不十分で、勘は素敵だ、という話をするとしても、その勘がどういう状況で、どの程度有効かということや、どういう適応として出てきたかということが解明すべき課題となります。

 

 正しさはいくつもあるのでしょう。ことばではうまく言いつくせないような正しさや、ある側面からは否定されてしまうような正しさもあるのでしょう。しかし、それは、正しいかどうかが判断できないというものではありません。

 

 勘による判断は、正しいかもしれませんし、正しくないかもしれません。ことばでうまく説明できないとしても、検討するべき材料ではあるでしょう。けれども、無価値である可能性は否定できません。

 

 直観的な判断を「非合理である」と切り捨てるのは早計ですが、熟練者の直観的な判断が危ういものであり、誤りうるということ条件づけておくべきです。

 

 たとえば、同書で挙げられている、敵や危険を見たときに考えるよりも前に逃走する性質が人間に備わっているのは、過去の人類にとっては明らかにプラスでした。同時に、現代では同じメカニズムによって、深刻な自律神経失調症で悩む人がいます。敵に遭遇する時に、強いストレスを感じ、全身が緊張して凄い力を出すことは現代生活におけるストレスに対してはほとんど適しません。

 

 たとえ、ある時点では勘による判断だったとしても、丁寧に考えを積み重ねていけば、明瞭に判断することができるようになるでしょう。合理的だから正しい、非合理だから正しくない、あるいは合理的でも正しくない、非合理でも正しい、といった判断は、大雑把過ぎて役に立たないのです。実際のところ、ビジネスシーンで直面するのは、具体的な問題です。合理的だとか、非合理的だとか、そういうレッテルはともかく、与えられた時間の中でできるだけのことを考えてみること―――必要なことはそれだけです。

 

 

 そして、そうした具体的な問題を考察する時には、合理的/非合理的、といったフレームや、形式知/暗黙知・経験知といったフレームワークは、残念ながら、粗すぎて参考になりません。この記事は、いいアイデアなのに、うまく説明できなかったというだけで否定された、という愚痴に慰めを与える程度には役立つでしょう。ただそれだけです。