B☆らぼ

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『思考停止ワード44』(博報堂ブランドデザイン著、アスキー 新書)その7

 この本を書いている著者は、博報堂ブランドデザインとなっています。博報堂+ブランド+デザインということで、バブルの香り未だ漂う感じとなっています。さて、この本一冊に粘着し続けても仕方がないか、という気がする一方、ネタの宝庫であることは間違いないため、まだやります。

 

 本の中には、そのものズバリ「ブランド」に対して、触れた項目があります。まず、その昔、「ブランド」というと、「うちは高級品売ってないよ」と断られたというような誤解を受けたエピソードから、記事が始まります。

 

 「ブランドということばを誤解されてるよ」ということばを別の人たちが言っているなら、ああそんなもんかもね、という感じですが、そもそもブランドのようなことばを流通させた大元のような人たちが世間に流布しているイメージを他人事のように受け取っている点には、笑みがこぼれます。マッチポンプというか、自爆というか。

 

 で、さすがにこの程度の認識はなくなってきたらしく、近年ではブランドはイメージ操作だと勘違いされている、と記事中で指摘しています。それもおまえらのグループの力不足だろ、と突っ込みたくなりますが、まあ(どうでも)いいでしょう。

 

 では、ブランドとは何か? ここで、ブランドは①他と違うこと、という定義が出てきます。しかし、「モノにあふれる」(相変わらず、何とかの一つ覚えのように登場するフレーズですね)時代において、少しくらい他社と違っても仕方がない、と続きます。そこで、その差となるものは、②社会にとって有意義で、魅力的な個性、でなければならないそうです。

 

 ここで、②に当てはまらないものはそもそもゴミなんだから、ブランドとは言わないだろ、誰も、と野暮な突っ込みをすることも可能です。さて、ここから、屁理屈とかいうレベルをぶっ飛んだ展開が待っています。②のことを考えると、会社らしさ+商品の良さ+顧客の受け止め方、というようなレベルではダメで、ブランドは企業や経営者の思いでなければならないそうです。はあ、そうですか。ずいぶん暑苦しいことですねえ。

 

 ブランドは魂である、いや、まあそういう規定をするのはいいんですが、たとえば、ワタミの社長の思いは、ブランドになっているんでしょうか。なんか決定的にずれている感じがします。

 

 経営者が何を考えていようと、企業が会社理念に何を書いていようと、印象に残る商品は残るし、感動的なサービスは感動的です。逆に、会社の経営者が話していることなんて、みんな力や魂がこもっていますが、大部分が空回りしてそうです。

 

 どう考えても、魂を込めるよりも、器の方をどうやって実現するかの方が難しく思えます。社長が熱い思いを語って、従業員を洗脳して、懸命に努力して商品やサービスを世の中に提供しても、つまらないものだったら、それで終わりです。

 

 博報堂ブランドデザインが、ヴィジョン経営やコーポレートアイデンティティ的な文脈で、仕事を取りたいという思惑が働いているのかもしれませんが、だからといって、そういう話とブランドの話を混ぜてしまうのは良くないだろ、という感じです。そもそもブランドということば自体が、軽薄で意味不明なものなので、「御社のブランドイメージは何なんですか」と聞くような変な人がいたら、「どういう意味ですか?」と聞き直した方がまっとうな会話になりそうです。

 

 それをそもそもふわふわしたことばの上に、妙な暑苦しさと余計にふわふわとした意味合いを乗せたために、結論はわけがわからなくなっています。ブランドは経営者の魂のこもったものだ、と言われて、何か行動に移せたり、商品のデザインに反映されることがあるのでしょうか。

 

 

 あまりにも不分明な記述と説明しかできていないので、博報堂ブランドデザインではなく、博報堂熱いうにゃうにゃデザインなどという名前に改名したらどうでしょうか。知的レベルが如実に反映されていそうな名前で素晴らしいと思うのですが。