学校の勉強と社会人
学校で勉強していた頃、社会人とは違って、学校という教育目的のためだけの箱がありました。
学校による強制のメリット
その箱の特徴は、生徒の興味関心はさておき、教えなければいけないことを教えるという役割を持っていました。箱は様々な問題を有してはいますが、ある程度機能していたおかげで、別に数学に興味を持っていた人でなくても簡単な数式を解くことくらいできますし、英語に興味を持っていた人でなくても、英単語を読むことくらいできるかもしれません。
また、興味や関心の外側から刺激されることで、自分の知らなかったことをやろうという気になったかもしれません。
別にしたくもないことをやらされるという点において、学校という箱はとても優れていたのです。
会社は強制の範囲が狭い
会社に入ってしまうと、仕事に関係のないことは提供されもしないし、強制もされなくなります(まあ、接待などはあるかもしれませんが)。
自分で関心を広げていかないと、仕事は勝手には広がりません。また、ちょっと関心を持った程度では、強制力がないので、真剣に取り組んでみようという気にもなりません。そういう事情から、「ああいうこともしたいなあ」「こういうこともしたいなあ」とふわふわと考えつつ、知らない間に年を食ってしまったという人も少なくはないはずです。
面白いことを探すためのアンテナ巡らせ
世の中面白いことないかなあ、と不満に思うとき、実は面白そうなことはあるけれども、今手を出す能力がない―――かといって、そこにたどり着くまでの道筋が見えない、だから何となく不満という形で口に出る―――そんなことはないですか?
社会人になってからは課題の見つけ方、糸口の見つけ方は変わります。しかし、そのきっかけから何かを生み出していくためには、必要な能力を構築する地道な努力が必要です。それは学校のときと変わらないのではないか、と私は最近考えています。となると、何の制約もない生活に、どのように強制力を持たせていくか、ということが人生を豊かにする一つの手段になるのではないでしょうか。